士会~晋の歴史上最高の宰相~
士会について
wikipediaでも見れば詳しく書いてあるがざっくり。
春秋時代の晋の正卿。
武官・武将としての経歴スタートか。
城濮の戦いの帰りに文公(重耳)の車右に抜擢されるというサプライズ人事で史書デビュー。
君主の車右というのはなかなかなれるものではないので、武勇はかなりのものだったと思われる。
個人的武勇だけでなく、亡命した秦では軍事顧問として晋との戦に勝利したり、晋に帰還した後の"舟の中には切られた指がいーっぱい"で有名な邲の戦いの撤退戦では、指揮していた上軍に犠牲を出さずに晋に引き揚げるなど、軍事的才能が豊富だったようである。
また周の内紛を収めた際に、周の定王からおもてなしを受けるも、礼を知らなかったために恥ずかしい思いをしてしまう。もう恥ずかしい思いをしたくないと、晋に帰国後に典礼の研究を開始。のちにそれらをまとめたものが「范武子の法」として、晋で長くありがたがられることになる。(范武子は士会のこと。范は封じられた地名。武は諡。)
文武に長じた人物だったようである。
士氏の系譜
帝舜以前は陶唐氏。
夏の時代は御龍氏。
商の時代は豕韋氏。
西周の時代は唐杜氏。
周の宣王に仕えた杜伯が無実の罪で殺されたため、子の隰叔が晋に亡命する。晋士氏の祖。
隰叔の子が士蒍。晋の献公(詭諸)の謀臣として活躍。大司空。
士蒍の子が士缺。士会の父。
士缺の代に驪姫の乱が起き、その際君命を尊重する立場を取ったため、驪姫の陰謀を肯定した者と見なされたのか、恵公(夷吾)からは重職を授けられなかった。
士缺の子が士会。文公(重耳)の車右から晋の正卿にまで上り詰める。士会の活躍により、士氏は晋の中でも重きをなし、晋の六卿に名を連ねるようになる。
また士会が随、范の地に封じられた事により、随氏、范氏とも呼ばれる。
士会の後は士燮→士匄→士鞅→士吉射と士会の系譜は続くものの、士鞅の代に晋国内の権力争いに敗れたため士氏の勢力は衰退、後の士吉射は斉に亡命することとなってしまう。
士吉射の後は不明。斉で一家を成したのであれば後裔も居そうではある。
范姓の人物
士会は「范」の地に封じられたことから、范の姓も持つ。
そのため士会より後の時代の范姓の人物は、士氏の系統に属する人達かもしれない。
范蠡、范雎、范増あたりが有名。
劉邦の先祖
士会の次男の士雃は、士会が秦から晋に戻る際に秦にとどまり、劉氏を名乗り劉軾と改名した。
劉軾の後、劉明→劉远→劉陽と続き、その後十代後の劉清は魏の大夫となる。(劉邦の曾祖父)
劉清の後、劉仁→劉煓と来て、劉邦に繋がる。
士会が秦に亡命し、魏寿余に足を踏まれることがなければ、後の漢帝国は誕生しなかったかもしれないと思うとおもしろい。
宮城谷昌光「沙中の回廊」の主人公
士会については宮城谷昌光さんが小説「沙中の回廊」に書いている。
士缺の末子として、部屋住みにならざるを得ない環境であったが、次第に頭角を現してゆき、最終的には晋の宰相にまで上り詰めるというサクセスストーリー。
城僕の戦い後の文公の車右に任命される所までは、宮城谷さんのオリジナルストーリーになっている。(はず)
春秋左氏伝(岩波文庫)でも初出は城濮の戦い(僖公28年)だったと思う。
以降は史書に書かれているイベントをなぞりながら進んでいく。
宮城谷さんの小説では後半になるにつれてどんどん内容が淡泊になっていくことが多いのだが、「沙中の回廊」もご多分に漏れず、物語の終盤はあっさり。
とは言え、前半の叔姫の護衛や二つの大戦、秦への亡命に関するエピソードなど、盛り上がる場面は多いので、非常に面白く読めた。
物語冒頭の郤缺との出会いはドラマチック。