戦国四君(孟嘗君、平原君、信陵君、春申君)
戦国四君とは?
中国の戦国時代に活躍した4人の人物の呼び名のこと。(孟嘗君田文、平原君趙勝、信陵君魏無忌、春申君黄歇)
春申君以外、各国の君主の一族。多数の食客を抱え、国政に多大なる影響を与えていた。
「四君」とひとくくりにされているが、4人の序列は以下のようになるだろうか。(個人的意見)
- 信陵君
- 孟嘗君
- 春申君
- 平原君
斉の孟嘗君『田文』
孟嘗君田文は斉の威王の孫にあたる人物。父は田嬰。
薛に領地を持っていたため「薛公」とも呼ばれる。
一芸に秀でていれば即召し抱えたといわれる食客の数は数千人と言われ、彼らの活躍によって様々な故事ができた。(「鶏鳴狗盗」「狡兎三窟」など)
他の三君と違い、他国からも宰相として迎えられたりしているあたり、政治的な手腕は相当なものだったのだろう。
晩年は斉の湣王との折り合いが悪くなり疎まれたため魏に逃れる。(秦の裏工作もあったか)
その後楽毅に滅亡寸前まで追い詰められた斉を田単が復興させ、孟嘗君も斉に再び迎えられることになった。
死後は息子達が跡目争いを繰り広げ、その隙を斉の襄王に突かれたため息子達は行方不明となった。
後に劉邦が薛を通ったときに子孫を探し出し、その末裔に三国時代に呉に仕えた薛綜が出たと言われている。
斉の為に頑張っても王に疎まれてしまうという悲しいスパイラルの繰り返し。
湣王が孟嘗君に全てを任せていたらどうなっていただろうかという想像も空しいか。
趙の平原君『趙勝』
平原君趙勝は趙の武霊王の子。恵文王の弟。
孟嘗君同様食客数千人。
平原君の食客には公孫竜や鄒衍がいたり、趙奢の能力を見抜き、推挙したりしているので、人物を見る目はそれなりにあるのだろうが、どちらかというとやらかし系が多いと思われる人。
長平の戦いにつながる韓の上党接収はそのやらかしの一つ。
秦との攻防まっただ中なのに、協力者である信陵君をディスってたりもするし、やってることが少し幼稚な印象。
「何かやらかす」→「諫められる」→「納得し改める」という三段落ちのような形のエピソードが多いので、その素直に行いを改める姿が評価されたのかもしれない。
死語、子孫が平原君を継ぐが、秦に趙が滅ぼされた際に共に滅ぼされたという。
孟嘗君の真似をしようとして食客を養っていただけのお坊ちゃんという印象が強い。
魏の信陵君『魏無忌』
信陵君魏無忌は魏の昭王の子。安釐王の弟。
魏・諸国をまとめ、攻勢を強める秦に対抗し続けた人物。
安釐王からはその能力を恐れられていた。
BC257、秦による邯鄲の包囲を解き、趙を救うことに成功。
その後10年余り趙に滞在し、魏に帰国。
五カ国の連合軍を従えて秦を函谷関まで押し戻した。
これにより信陵君の威名は天下に鳴り響いたが、安釐王の恐れを増大させることにつながった。
安釐王に遠ざけられた信陵君はそのうち酒浸りになり、最後は過度の飲酒のため死去する。
趙に10年もいたってことは、よほど魏の居心地が良くなかったんだろう。
安釐王の立場からしても、自分より名声も実力もある弟がいたら気が気じゃなかったか。
漢の高祖である劉邦は信陵君のファンであり、大梁を通る際は信陵君を祀っていたという。
信陵君の食客には張耳もおり、一時張耳の食客になっていたといわれる劉邦に信陵君のエピソードを伝えていたのかもしれない。
楚の春申君『黄歇』
楚の頃襄王・考烈王に仕え、令尹として衰退していく楚を支えた人物。
戦国四君の中で、唯一王族ではない。
そして漫画「キングダム」に唯一登場?
太子時代の考烈王の従者として秦で10年ほど人質生活を送った。
後に考烈王が秦を脱出した際には一人で残り、別の公子を人質とすることを秦と交渉しまとめる。(代わりの人質となったのが昌文君熊顛。人質時代に考烈王が秦の昭襄王の娘との間にもうけた子が昌平君熊啓)
その後帰国し、苦楽をともにした考烈王から令尹の食を授かり、国政を司ることとなった。
その後五カ国連合軍を率いて秦と戦うが、函谷関の戦いで敗退。
これ以降考烈王の信を失い、疎まれるようになる。
この人も他の三君と同様に食客を多数養っていた(荀子など)が、最後はその食客(李園)に暗殺される。
史記を書いた司馬遷からは「老いぼれたから」とかディスられるし散々。
まぁ李園の「楚王室乗っ取り計画」にほいほい乗っちゃうあたりで、判断力も大分鈍っていたのだろう。
とは言え、考烈王の次代の幽王は春申君の子という噂もあるため、乗っ取り計画自体は成功していたかもしれない。
「○○君」は他にもいっぱい
戦国四君が群を抜いた知名度を持っているが、四君の他にも「○○君」はいっぱいいる。
大抵の場合領地に封じられると「○○君」と呼ばれる事が多い。(封君)
本名が有名な人もかなり多いので、また別の機会にまとめる。