城濮の戦い~晋と楚の覇権争い~
城濮の戦いとは
紀元前632年に起こった、晋と楚の戦争のこと。
この戦争に勝利した晋は覇権を握り、以降しばらくのあいだ晋楚の覇権争いが続いていく。
晋の文公(重耳)はこの戦いの後、周王から覇者に任じられた。(春秋五覇の代表とされる「斉桓"晋文"」)
戦いの起こった経緯
宋の帰趨が原因。
泓の戦いの後、宋は楚の風下に立たざるを得ず、盟約も結んでいたが、楚から離れようと考えていた。
かつて宋の襄公(この頃は既に襄公は亡く、成公の代)が放浪中の重耳を厚遇し、文公との関係も良かったので、後援してもらえると踏んだのか、楚の盟下から離れて晋に付いた。
この宋の背信を咎めるために、楚は子玉(成得臣)・子西(闘宜申)の軍を宋に侵攻させ、緡を包囲した。
その翌年、楚軍は諸侯の軍(陳・蔡)と共に宋に侵攻し、国都の包囲が始まる。
宋からの救援要請を受けた晋軍が動き出し、城濮の戦いへと収束していく事になる。
衛・曹攻め
宋から救援要請を受けた晋は、曹・衛が楚の盟下に入ったばかりなので、これらの国を攻めれば、宋を攻めている楚軍が救援に来るので宋は助かると考え、二国を先に攻める事にした。
衛・曹二国に対しては、放浪時代に受けた酷い待遇に対する意趣返しの意味もあったのだろう。
まず衛の五鹿を占領。(衛で困窮した際に五鹿で農民に食を請うたところ、土をさしだされたエピソードの回収)
斉軍と斂盂で会盟をする。晋の怒りを恐れた衛の成公も会盟に加わらせて欲しいと願うも冷たく却下。
衛の人々は晋よりも楚に近づこうとする衛公を追放し、晋に申し開きをする。
次に曹都を攻め落とし、曹の共公を糾弾。(風呂覗いた事とか色々)
さらに共公を逮捕したり、領土の一部を取り上げたりするなど。まぁまぁキツめの対応をとっている。
その後は、楚から二国を離反させるために対応を改めているが、不信感は消えなかったことだろう。
三舎を避ける
衛・曹を楚から離反させ、楚軍を引きつけることに成功した晋軍は、楚軍に対して三舎後退した。
晋の文公が楚の成王から受けた恩を返すため。
有言実行の文公ではあったが、楚の子玉はお構いなしに晋軍を追跡し、城濮の地で対峙することになる。
城濮の戦い
戦いが始まると、まず下軍の佐、胥臣の隊が馬に虎の皮を被せるという異形の装備で、楚の右軍に属していた陳・蔡の軍に突入。陳・蔡の軍を崩すと、そのまま右軍全体も崩した。
下軍の将、欒枝が偽って負けたように見せ退却し、楚軍がつられて追撃するところを、中軍の先軫・郤溱が楚軍の側面から攻撃し打ち破る。
上軍の狐毛・狐偃は軍を二手に分け楚の左軍を挟み撃ちにして崩した。
楚の中軍は、子玉が兵をとりまとめて動かなかったため崩れずに済んだものの、全体としては楚の敗北だった。
文公、覇者に
城濮の戦いに勝利したのち、晋は周のために践土という地に王宮を建設。
そこで周王に捕虜や戦利品を献上した。
周王は晋の文公を侯伯(覇者)に任命し、様々な品を下賜した。
文公は三度辞退してから、それを受けている。(お決まりのパターン)
※この時代は周王の権威が失墜し、覇者と呼ばれる君主が天下を主宰した。
日本の武家政権と朝廷との関係が近いのかもしれない。
城濮の戦いの不思議1
曹を落としたあと、僖負羈邸に放火した魏犨と顚頡であるが、魏犨は助命されて、顚頡は問答無用で処刑されている。
魏犨と顚頡の共犯と思っていたが、顚頡が主犯で魏犨はそこまで関与していなかったとか?
春秋左氏伝には「魏犨の才を惜しんで云々」とあるので、単純に魏犨の方が顚頡よりも優秀だったから?畢万の子というのも関係していそうな気もする。
真相はどうなのだろうか。
城濮の戦いの不思議2
城濮の戦いの前後で、文公の車右が2回変わっている。
最初は魏犨から舟之僑。
次は舟之僑から士会。
魏犨から舟之僑に変わった理由は、魏犨が放火の際に負傷したからということで明確。
しかし舟之僑から士会に関しては意味が良く分からない。
城濮の戦い後、晋に帰還する時に舟之僑が見当たらない。
なんと先に晋に帰ってしまっていたという。
そこで士会が抜擢され、文公の車右になり、後の出世に繋がっていくのだから面白い。
が、舟之僑が帰った理由がさっぱりわからない。
宮城谷昌光氏は著書「沙中の回廊」の中で、
『舟之僑が無断で去ったことは、文公が覇者であることを認めないという意志表示であろう。舟之僑は旧主の徹慢無礼を批判して読を去った男である。今回の行動も、文公に徹慢無礼をみたがゆえに、あえて起こしたにちがいない。』
宮城谷昌光「沙中の回廊」
と書いている。
舟之僑はその後処刑されている。
君主を批判すれば後々難を受けるに決まっているのに、あえてやったというのであれば、この時代の人の考え方というのはなかなか特殊である。
城濮の戦い前後年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
BC638 | 泓の戦い。宋が楚に負ける。(宋襄の仁のエピソード) |
BC637 | 五月、宋の襄公死ぬ。(泓の戦いでの負傷が原因) 重耳、楚に入る。 楚の成王は一行を饗応し、重耳に質問した。 成王「もしもあなたが晋に帰国出来た場合、何を返礼としてもらえますか」 重耳「美女も宝石も楚の君は全て持っている。美しい鳥の羽や動物の革なども全て楚の産物で、晋に流れてくるのはその余り物にすぎないのだから、晋が楚に返礼出来るような物は何もありません」 成王「そうだとしても、何か返礼してもらえるものはあるのでは?」 重耳「もし楚の君のおかげで晋に帰ることが出来たとしたら、晋と楚が中原で戦になった際、晋軍は三舎(行軍三日分の距離、九十里)軍を退きましょう。もしそれでも戦闘になってしまった場合は、お手合わせを願います」 饗応の後、子玉(成得臣)は成王に重耳を殺すように請うた。 成王は「重耳は志が大きく、節度がある。文辞もあって礼に合している。従者は皆才能豊か。今の晋侯(恵公)は内外で憎まれているので早晩自滅する。姫姓の国の中で、晋が最も長続きするという予言を聞いたことがある。それは重耳が国君になるからだろう。天が重耳・晋を興そうとしているから誰にも止めることはできない。天に背けば、必ず災いが起こる」と言い、子玉の発言を退けた。 重耳、秦に入る。 秋、楚の子玉が陳に侵攻。焦・夷を占領。 |
BC636 | 秦の穆公、重耳を軍とともに晋に送り込む。 重耳、晋侯として即位。(晋の文公) 宋、楚と講和。宋の成公が楚に挨拶に行く。 |
BC634 | 宋が楚の盟下から離れ晋につく。 楚の子玉と子西は宋に侵攻。緡を包囲。魯の僖公は楚軍を率いて斉に侵攻。穀を占領。 |
BC633 | 楚、宋を包囲するために、事前に演習をする。 最初は前令尹の子文(闘穀於菟)が執り行った。その際は朝食までに終了し、刑罰を加えた者は一人も出なかった。 次に令尹の子玉が行ったところ、一日がかりになり、七人を鞭打ち、三人の耳を矢で刺すという刑罰を加えた。 楚の元老達は子文に良い後任が出来たことを祝いに行った。子文は酒宴を開いてそれに対応した。 出席者の一人である蔿賈は遅刻し祝いも述べなかった。 子文が訳を聞くと「子玉が失敗すれば、推挙した子文の責任。子玉は強気で礼を知らないから大兵の統率は出来ない。もしも率いたのなら無事に帰還することは難しいだろう。帰還してから祝っても遅くはない。」 冬、楚は諸侯と一緒に宋を包囲した。 宋の公孫固は晋に救援を求めに行き事態を告げた。 先軫は「放浪時の宋の襄公の恩に報いるときが来た。覇業を定めるのはこの時です。」と言い、 狐偃は「楚は曹と衛を味方につけたばかり、我らが曹・衛を攻めれば必ず救援する。そうすれば斉と宋は楚に攻められずに済むだろう。」と。 晋は被盧で閲兵式を行い、三軍を作った。 中軍 将:郤榖 佐:郤溱 上軍 将:狐毛 佐:狐偃 下軍 将:欒枝 佐:先軫 |
BC632 | 春、晋は曹を攻めるために、衛の国内を通らせて貰えるよう依頼したが、衛はそれを許さなかった。 晋軍は南下し渡河(棘津から?)。曹から衛に入り五鹿を占領した。(放浪時のフラグ回収) 二月、晋の中軍の将である郤榖が死んだ。下軍の佐の先軫を中軍の将に、下軍の佐に胥臣が新たに任命された。 晋と斉が斂盂で会盟。衛は加盟を願ったが、晋は許さなかった。 衛は晋よりも楚に付こうとしたが、衛の国人はそれを望まなかったため、衛の成公を都から追い出し、晋に言い訳した。 魯は衛の防衛のために公子買の軍を派遣。楚も衛を救援したが、晋軍を破れなかった。 魯は晋から恨まれる事を恐れて、公子買を殺し言い訳した。楚に対しては、衛の防備をおろそかにして帰ってきたので処刑したと伝えた。 晋は曹を包囲して城門を攻めたが、戦死者が多く出た。 曹は晋の戦死者を城墻に並べたので、晋軍の士気が低下。これに対抗する策として、軍を場外にある曹人の墓地に移動させた。 曹人は先祖の墓が暴かれる事を恐れて、晋の戦死者を棺に入れて場外に出した。晋軍はその隙を突き、城を攻撃。ついに落とした。 文公は曹公が釐負羈(僖負羈)の進言を用いなかったこと、無駄に大夫を300人もかかえていた事を責めた。また文公の入浴をのぞき見した非礼を糾弾した。 晋軍には僖負羈邸への立ち入りを禁止し、僖負羈と関係のある者を赦免。放浪時の恩に報いた。 文公の車右であった魏犨と顚頡は「共に苦労した我らではなく、釐負羈などに報いるとは」と言って怒り、釐負羈邸に放火した。 魏犨はその際に胸を負傷。文公は魏犨を処刑しようとしたが、その才を惜しみ、使者を見舞いに出し、重傷であれば殺そうとした。 魏犨は見舞いの使者と会い、「わが君のおかげで元気です」と言い、体を動かして見せたので、文公は殺すのを止めた。 ただし顚頡は処刑し、全軍への見せしめとした。 文公の車右は負傷した魏犨から舟之僑に代わった。 宋は門尹般を晋軍に派遣し、楚に包囲されている事態を告げた。 文公は「放置すると宋は楚に付いてしまうし、戦おうと思っても、斉と秦は参戦しないだろう。どうすればよいか」と先軫に方策を問うと、先軫は「宋に斉・秦への贈り物をさせ、斉・秦から楚に対し、宋の包囲を解くよう説いてもらう。晋は曹公を逮捕し、曹・衛の領土の一部を、宋が斉・秦へ贈った贈り物の埋め合わせとして与える。楚は曹・衛を味方と思っているので、その領土を宋からの贈り物として間接的に受け取ったことになる斉・秦の説得は聞かないだろう。斉・秦は宋からの贈り物を喜ぶ一方、楚の頑迷さに憤慨すれば、自ら参戦してくるだろう」と策を述べた。 文公はその策に同意し、曹の共公を逮捕し、曹・衛の領土の一部を宋に与えた。 楚の成王は申を拠点とし、申叔には穀から、子玉には宋から撤退するよう命じ、次のように伝えた。 「晋軍と戦ってはいけない。晋侯は国外を19年放浪し、遂には晋国を手に入れた。辛酸をなめ尽くし、民心の表裏も熟知している。天は晋侯に長寿を与え、政敵を葬った。天が定めたものは排除する事はできない。兵法に"ほどほどで止める"、"難所であれば退く"、"徳のある人物には刃向かうな"とある。これらは今の晋に当てはまっている。」 これを聞いた子玉は伯棼(闘椒)を成王に送り、次のように言って晋と戦うことを請わせた。 「手柄が立てたいわけではなく、勢揃いの際に蔿賈が言ったことを覆したいだけです」と。 成王は怒ったが、(どう説諭してもおさまらないと思った?)子玉に対し軍を分け与えた。(西広の兵車30輌。東宮の兵。若敖氏の六卒(兵車180輌)) 子玉は宛春を晋軍に派遣し、「衛の成公を国都に戻し、曹を元通りにすれば、宋の包囲を解く」と伝えた。 狐偃は「子玉は無礼だ。わが君の成果は宋の包囲を解いたという一事だけ。逆に子玉の成果は衛と曹の原状復帰の二事。とても受け入れられないので戦うべきだ」と述べた。 先軫は「子玉の要請を受け入れるべきである。他国を安定させるのが礼というものである。楚は一言で宋・衛・曹の三国を安定させるのに対し、我々は一言でこれらを滅ぼしてしまう。こちらに礼が無くては戦えない。子玉の要請を断れば、宋を見捨てることになる。宋を救援に来ていながら、これを見捨てたりすれば、諸侯は何と言うだろうか。楚は三国に恩を与えるのに、こちらは三国から怨まれてしまう。怨敵が多くなってしまうと戦えない。そこで楚に先んじて内々に衛・曹の原状回復を許し、恩を売って楚から引き離し、子玉の使者の宛春を逮捕・拘留して子玉を怒らせた上で戦う。戦った上で後のことは考えるというのが上策である」と述べた。 文公は先軫に同意し、その策の通りに実行した。 衛・曹は楚と断交。子玉は怒り、宋の包囲を解いて、晋軍に軍を向けた。 文公は楚軍が向かってくると三舎(九十里)後退した。晋軍の中からは「楚軍を避けるのは恥辱である。楚軍は数ヶ月の宋の包囲で消耗し、士気も落ちているのに、なぜ有利なこちらが後退するのか」という声が上がったが、「以前楚の成王から受けた恩を返すためである。恩を返さないうちに楚と事を構えると、晋が曲で、楚が直となる。恩を返すためにこちらが軍を退き、楚も軍を退くのであれば、それが最も良い。こちらが軍を退いても、楚が軍を退かなければ、曲は楚の側になる」と狐偃は言い、不満の声を抑えた。 三舎後退した晋軍を見た楚の諸将は、軍を停止させようとしたが、子玉は許さず、そのまま晋軍を追った。 四月、晋侯、宋公、斉の国帰父と崔夭、秦の小子憖は城濮に布陣した。 楚軍は丘陵を背に布陣した。 晋の中軍は大風に遭い、元帥の旗と左翼の軍旗を失ってしまった。 また、祁瞞が軍令違反を犯したので、これを殺し、茅茷に交代させた。 子玉は子上(闘勃)を使者にして晋軍に挑戦させた。 それに対し欒枝は「我々は楚王から受けた恩を忘れなかったからこそ、三舎後退してここにいる。あなた(子玉)はそれをご存じだろうから、とうに退かれたと思ったが、戦いを望んでいる。こうなった上は明日早朝に戦い、雌雄を決しましょう」と応えた。 晋の兵車は700輌。 文公は有莘氏の廃墟に登り閲兵し、そこの木を伐って武器を増やした。 翌日、楚軍は中軍を子玉が、左軍を子西(闘宜申)が、右軍を子上(闘勃)が率いた。 下軍の佐の胥臣が虎の皮を馬に被せて、陳・蔡の軍に突入すると、陳・蔡の軍は算を乱して逃げ出し、それによって楚の右軍が崩れた。 上軍の将の狐毛は上軍の二隊を動かし、敗残兵を追い払った。 下軍の将の欒枝は兵車に柴をつけて引きずり、土埃を立てて逃げるふりをして敵を誘った。すると楚軍がそれに釣られ追いかけた。そこを先軫・郤溱が中軍を率いて側面から攻撃した。 狐毛と狐偃は上軍の兵を分け、子西の軍を挟み撃ちにし、左軍を崩した。 中軍は子玉が兵をとりまとめて動かなかったため、崩れずに済んだものの、楚軍としては大敗となった。 晋軍は3日間休養してから引き揚げた。 21日後に衡雍に到着。践土に周王のための王宮を建設した。 五月、晋は鄭と衡雍で盟を交わした。 晋は楚の捕虜、軍馬、兵車、歩兵などの戦利品を周の襄王に献上した。 襄王は晋の文公を侯伯(覇者)に任ぜられ、様々な品を下賜された。 文公は三度辞退してから受けた。 六月、晋軍は引き揚げるために黄河を渡った。 文公の車右であった舟之僑は何故か先に帰っていたため、士会が代わって車右をつとめた。 七月、晋に凱旋。捕虜と切り取った敵の耳を宗廟に献じ、将兵に恩賞を与え、舟之僑を殺した。 城濮の敗戦後、楚の成王は楚に引き揚げてくる途中の子玉に「兵を多数死なせて楚に帰ってきて、その父兄に合わせる顔があるのか」と伝えた。子玉は自殺しようとしたが、子西と成大心(子玉の子)が引き留めた。しかし連榖に着くと結局自殺してしまった。 子玉の死を聞いた晋の文公は「私を悩ます者がいなくなった」と喜んだ。 |