重耳(晋の文公)について
重耳とは
「晋の文公」の事。
晋の献公(詭諸)の子として生まれる。
驪姫の乱の後、19年間諸国を放浪。
農民から土をもらったり、酔い潰れてるところを馬車で運ばれたり、お風呂を覗かれたりと、なかなか波乱に富んだ放浪生活を送っていた。
最終的には秦の穆公の助力を得て、晋に帰ることができた稀有な人。
恵公・懐公の間に色々乱れていた晋を立て直し、城濮の戦いで楚を破ることで覇者となった。
斉の桓公と並び称され、「斉桓晋文」という略称もある。
斉の桓公とともに、春秋五覇の筆頭。
なぜ諸国を放浪することになったのか
献公が色ぼけした結果。
本来であれば嫡子である申生が献公の跡を継ぐはずだったが、献公の晩年に驪姫の産んだ子がかわいくなったのか、申生、重耳、夷吾の兄弟を排除し始める。
父親である献公に逆らえず、申生は自殺。重耳は領地である蒲を攻められ狄へ、夷吾は屈を攻められ梁へ逃亡することになった。
BC651に里克と丕鄭が乱を起こし、驪姫の子(奚斉と卓子)を殺害。重耳を晋君に据えようとするも拒否したため、弟である夷吾が晋君として擁立された。
重耳は時機が来るまでの19年間、他国を放浪することになる。
19年中12年は狄にいた
蒲から逃げた後、19年も延々放浪してたのか・・・大変だな。
と思っていたが、年表作ってみると実際諸国を放浪してたのは7年位?
蒲から狄に逃れて、そこに12年くらいいた計算になるので、半分以上は定住していたようである。
現地妻を迎えて子を作ったりしてるし(伯鯈・叔劉)、狄の地とは言え、ある程度快適に暮らしはしていたのだろう。
重耳の諸国放浪年表
史記世家、春秋左氏伝、新編史記東周年表から抽出して放浪関連の年表を作成。
重耳が放浪をする事になった原因は驪姫にあるので、晋が驪戎を攻めたところから。
BC643年からBC636までに巡った国は、衛・斉・曹・宋・鄭・楚・秦の七カ国。
西暦 | 重耳年齢 | 出来事 |
---|---|---|
BC676 | 23 | 晋の献公即位。 |
BC672 | 27 | 晋の献公、驪戎を攻め驪姫姉妹を得る。献公これを寵愛する。 |
BC665 | 32 | 驪姫、奚斉を生む |
BC666 | 33 | 晋の献公は大子の申生を曲沃に、重耳を蒲に、夷吾を屈に住まわせた。 都の絳に残った献公の子は奚斉のみ。(この時点で卓子が生まれていたか不明) |
BC661 | 38 | 晋は一軍を増やし二軍編成とした。 上軍を献公が、下軍を申生が率いることとなった。 ※大子から下軍の将という地位に落とされた。申生が晋の君主として立てる見込みが薄くなった。 |
BC660 | 39 | 晋の献公は申生に東山皐落氏という族を攻めさせた。 出陣に際し献公は、申生に左右染め分けの服を着させ、金属製の玦を佩びさせた。(献公からの死ねというメッセージ) 申生の側近は亡命を進めるも申生は拒否。献公との仲さらに悪化。ギスギス。 |
BC655 | 44 | 申生、新城で首を縊って死亡。 晋の献公は寺人披に蒲を攻めさせた。 攻められた重耳は「父には逆らえない。あえて父の軍に手向かう者は私の敵だ」と告げ、蒲から逃げ出し、狄に出奔した。 |
BC654 | 45 | 晋の献公は大夫の賈華を派遣して屈を攻める。 夷吾は梁へ逃亡。 |
BC651 | 48 | 晋の献公死去。 重耳狄に居ること5年。 里克と丕鄭は重耳を迎え入れようとして乱を起こし、奚斉と卓子を殺した。 だが重耳は晋に戻らず、弟の夷吾が秦の力を借りて帰国し晋侯として即位した。(晋の恵公) |
BC650 | 49 | 晋の恵公、里克を殺す。 丕鄭、祁挙は七輿大夫(共華、賈華、叔堅、騅歂、纍虎、特宮、山祁)とともに、恵公を晋から追い出し、重耳を迎えようと計画するも、呂甥、郤称、郤芮に察知され、逆に殺されてしまった。 |
BC645 | 54 | 韓原の戦い。 晋が秦と戦い、恵公が捕虜になるも、後に釈放され帰国する。 晋の恵公、重耳に暗殺者(宦者履鞮)を送る。 |
644 | 55 | 重耳、狄に居ること約12年にして去る。 その後、衛に至る。 衛の文公、これを優遇せず。 衛を通過後、五鹿にて農人に食を乞うも、土を持った器を出される。 這々の体で斉に至る。 斉の桓公、大いに優遇する。 |
BC643 | 56 | 恵公の大子の圉が秦の人質となる。 斉の桓公死去。孝公立つ。 |
BC640 | 59 | 重耳、斉に居ること約5年。 酔っ払ったろころを狐偃・趙衰などに連れ出される。 その後、曹に至る。 曹の共公はこれを優遇せず、重耳の風呂を覗くという無礼を働く。 曹の大夫の釐負羈(きふき)は個人的に重耳に食物などを贈った。 |
BC638 | 61 | 重耳、宋に至る。 宋の襄公は、楚と戦った泓の戦いの際に負傷していたが、重耳を国君の礼をもって遇した。 |
BC638~637 | 61~62 | 重耳、鄭に至る。 鄭の文公はこれを優遇せず。 鄭の叔瞻は「重耳を優遇しないなら、殺したほうが良い」と献言するも鄭の文公は聞き入れなかった。 |
BC637 | 62 | 重耳、楚に至る。 楚の成王、重耳を諸侯の礼をもって遇す。 秦の人質となっていた圉、晋に逃亡。 重耳、秦に至る。 繆公、5人の娘を娶らせる。 恵公死ぬ。 圉、即位。(晋懐公) 懐公、重耳に随従している者に帰国命令を出す。 秦の穆公、重耳を軍とともに晋に送り込む。 黄河を渡り、令狐、桑泉、臼衰を攻める。 狐偃、晋、秦両国の大夫達と郇で盟を交わし、翌日には重耳は晋軍に入り指揮権を掌握した。 四日後、重耳は曲沃に入り、翌日には武公の廟で朝見。 その翌日に懐公を高梁で殺させた。 呂甥、郤芮は重耳に攻撃されるのを恐れて、重耳を殺そうと計画したが、履鞮が重耳に密告。 王城に逃れ秦に助けを求めた。 呂甥、郤芮は計画を実行したが重耳は見つからず、逆に秦の穆公に誘い出されて殺されてしまった。 重耳は三千人の秦の精兵とともに晋に帰国した。 |
重耳を厚遇した国、冷遇した国
重耳が放浪中に立ち寄った国で厚遇してくれたのは、
- 斉(桓公)
- 宋(襄公)
- 楚(成王)
- 秦(穆公)
逆に冷遇した国は、
- 衛(文公)
- 曹(共公)
- 鄭(文公)
晋に帰国した後、冷遇した国に対して重耳はキツめに当たるようになる。
当然と言えば当然であるが、普通に考えれば放浪しているような他国の公子が君主になるとは思うわけがない。
厚遇した国の君主は人の器量を見抜く優れた人物だったのだろう。